フジカAX-5
私が写真を始めた1981年当時、最もカメラファンに人気の有ったのが、マルチモードを搭載したキヤノンA-1でした。
A-1が発売されたのは78年、当時既に3年ほど経っており、その人気は誰もが知るところであったにも関わらず、意外とライバルが現れなかったのは、マルチモードを実現するには、何らかの形でマウントに手を加える必用が有ったからなのです。
A-1に先駆けて登場したミノルタXDにしても、両優先AEを実現するために、MDレンズに切り替えていますし、マミヤZE-Xは、マミヤお得意のマウント変更、そしてもう一台、フジカAX-5という機種がありましたが、コレもマウント変更を伴った機種でした。
フジカが一眼レフに参入したのは70年代になってからですが、M42マウントに、独自の方法で開放測光を実現したものでした。
M42マウントというのは、自動絞りまでは皆同じ方式なのですが、開放測光に関しては、各メーカー別の方式を取っており、その時点で既にユニバーサル・マウントではなくなっていたのです。
そして1980年に登場したのが、バヨネットマウントを採用したフジカAXシリーズでした。
絞り優先AEのみのAX-1、絞り優先+マニュアルのAX-3、そして両優先AE+プログラムAEのマルチモード機として登場したのがAX-5です。
このAXシリーズは、結構デザインも洗練されていて、当時の日本カメラショーの総合カタログなんかでも、結構良く見えたものでした。
右側全面には、キヤノンAシリーズを思わせる様な、4LR44型バッテリーを収納するスペースが有ります。当時はそれだけでも高性能の証の様に見えたものでした。
しかし…やはり私の住んでいた関西の田舎では、その実物すら見るチャンスも無く、1984年頃には、全てが生産中止になりました。
ただ、海外ではもう少し長く販売された様で、86年に当時私の父がアメリカから買ってきたカメラ雑誌には、まだAXシリーズは掲載されていましたし、フジカブランドを止めてフジにかってからのフジAXマルチプログラム、フジSTX-2という国内では販売されなかったモデルも、ランナップされていました。
このシリーズが短命に終わった理由は、やはりマウント変更を伴ったこと、そして、ソレが専用マウントであったことだと思います。
当時のペンタックスは、マウント変更のリスクを減らす為に、各メーカーにKマウントの採用を勧めたものの、同じM42陣営であったマミヤやフジカがソレに参入しなかったのは、やはりKマウントがシャッター優先AEやプログラムAEに対応していなかったからなのだと思います。
仮にKマウントに参入していたら…これもKAマウントになる時に非公開にするという裏切りを働いたので、結局上手く行った可能性は低いですね…。
やはり大手5社に比べてレンズのラインナップや、モータードライブといったアクセサリー類が少なかったこと、カメラ店で目にする機会が少なかった事…その辺りも大きな理由だったと思います。
当時は大手5社の他にも、フジカ、コニカ、マミヤ、ヤシカ、リコー等、様々な一眼レフメーカーがありました。
今日、フジノンレンズや、ヘキサノン、セコール等のレンズの優秀性は知られる様になったものの、それよりも例えば同じ50mmでも非球面のF1.2Lなんかを設定していたキヤノンのほうが単純に魅力がありました。
例えば今日極めて描写に評価の高いリコーの50mmF2ですが、幾ら描写が良いと言っても、当時のファンからすると、F2は安物レンズ以外の何者でもなく、それよりも、より大口径なレンズの方が持て囃されたのです。
そんな事から、「フジノンレンズを使いたいから…」なんていう人は、殆ど居なかったのではないでしょうか?
更に、キヤノンやニコンには300mmF2.8の様な特殊なレンズが揃っていたこと…そんな辺りもフジカに対して遥かに魅力的に思えたものでした。
ただ、このAXシリーズに関しては、一つ評価に値するのは、従来のM42レンズを取り付けるためのアダプターが用意されていたのですが、驚くことに、ソレはM42マウントのレンズで、自動絞りはおろか、プログラムAEまで対応出来るという優れものだったのです!
ペンタックス純正のアダプターが、ただ取り付けられるだけだったのと比べると、非常に真面目だったと言えるでしょう。
ところが、M42のユーザーも、アダプターを使うことで問題なく移行できた…とは言っても、その肝心のユーザーの数自体が少なかったのです。
こうやって見ていくと、やはりフジというメーカーは、それなりに良い技術を持っていたと言えるのでしょうが、その販売力、ブランドイメージといった面で敵わなかったのです。
現在は、マイナー路線に終始することで、それなりのシェアを得ているフジですが、一眼レフの歴史は、こうやって不振の歴史でもあったのです。