ライカM6
ライカM6が発売されたのは1984年、正にライカにとって救世主とも言える機種でした。
その頃のライカといえば、70年代半ばの倒産劇以降、不振を極めていました。
一眼レフの流れに乗り遅れ、ミノルタとの提携で生まれたRシリーズはパッとせず、M系も未だに露出計すら内蔵されていない60年代のM4から余り変わらないM4-P…。
80年代初頭、露出計すら内蔵されていないカナダ製のM4-Pが44万…キヤノンNewF-1が18万円で買えた当時、正気の沙汰とは思えず、既に「レンジファインダーの速写性」なんてのも遠い昔話で、目立たない存在に終始していました。
そんな中で1984年に登場したのが、TTL露出計を内蔵したライカM6だったのです。
このカメラは、M4-Pに露出計を内蔵したといえるものですが、M5での失敗から、M3以降の伝統的なスタイルを崩さないことが至上命令だったのです。
製造も、不評であったカナダ製からドイツ製…と言いたいところですが、実際にはポルトガル製であった様です。
一眼レフと違い、ファインダーがレンズと別の光学系となっているレンジファインダーでは、比較的TTL化のハードルは高く、M5では、巻き上げと同時にCDSセンサーがシャッター幕の前に現れ、レリーズと同時に立ち去るという複雑な構造になっていましたが、その事もボディーの大型化に繋がったのです。
その他にも、プラウベルマキナ67では、TTLならぬ、レンジファインダーの光学系にセンサーを内蔵するTTFという妥協策を取ったりしていました。
それがM6の時代には、センサーの技術も向上し、僅かな光にも反応するSPDが一般的になっていました。
その事から、TTLのセンサーをカメラの底部に内蔵し、シャッター幕の真ん中にある丸いマークの反射光を測定することで、TTLスポット測光を実現していたのです。
M3のスタイルでTTLが使用可能ということ、85年のプラザ合意以降、円高からライカ自体の値段が下がったこともあり、日本でも結構な人気を博したものでした。
特に一眼レフのAF化以降、急速に巨大化し、しかもフラッグシップ機となると、その大型化、高価格かも顕著なことから、相対的にライカの割高感が解消されたのです。
更に90年代には、空前のクラシックカメラブームがあり、そんな中でも安定した販売を続けました。
それどころか、コンタックスGシリーズが登場したり、コシナがフォクトレンダー・ベッサシリーズを発売したり、更には安原光学なる会社まで登場したり、レンジファインダーが再び脚光を浴びる中で、M6は、人気、実力共にその中心であり続けました。
反面、昔のライカと比べ、例えば測距部に乱反射が発生したり、操作フィーリングにイマイチ暖か味が欠ける…という意見もあり、M6でライカに入門し、M3で落ち着く…というファンも大勢居ました。
84年の登場から98年まで生産され、98年、28mmのファインダー枠を省略し、ファインダーの倍率を拡大したM6 0.85、そしてフラッシュのTTLダイレクト調光を内蔵したM6TTLにバトンタッチしています。
尚、旧M6ベースのM6 0.85は少量生産に終わり、次期M6TTLには0.72倍と0.85倍の2種類のバージョンが存在していました。
結局M6TTLも合わせると、2002年の生産中止まで、実に18年ものロングセラーとして君臨した、正にライカの定番と言えるでしょう。
その後、M7で電子化され、絞り優先AEを採用しており、ココまでが横走シャッター機ということになります。
M6は、90年代に銀座のレモン社辺りから大量に並行輸入が行われ、50mm付きで30万程度で購入できたものでした。
ソレが今や100万近いという有様…。
90年代のクラシックカメラブームは、AF一眼レフの巨大化、プラ化に食傷気味になった市場が、相対的に割安感の出たライカに流れた…という一面もありました。
あの熱狂的とも思えたブームの中で、コンスタントに売れ続けたM6系は、ライカ最後の機械式レンジファインダー機でもあり、やはり名機と言えるのでしょう。